『古信濃川はどこを流れていたのでしょうか? 元々は信濃川の本流でしたが、今はどこを流れているのかを辿る』をテーマにしたまち歩きです。まち歩きの日は当初10月7日(日)でしたが当日は台風25号の襲来で11月3日(土)に延期されました。参加者は7名、ガイド1名、同行者4名の計12名でのまち歩きとなりました。当日は三重丸が付けられるような上天気で、集合場所の蔦屋書店前を気分よく出発しました。
なおタイミング良く、「市報にいがた」 10月7日号の記事に「流作場」及び「古信濃川」の記事が載りました。今日のまち歩きは、まさにこの古信濃川に沿って、上流から下流に向かってのまち歩きです。
流作場の歴史について解説した分厚い本を開くと最初に島嶼(とうしょ、大小さまざまの島の事)という難しい漢字が出てきます。流作場はその島嶼より始まったようです。
江戸時代初め信濃川河口に阿賀野川が流れ込み、その約100年後には阿賀野川が現在の松ヶ崎に河口を変えました。これらの川の流れの大きな変化で河口右岸部の川欠けや流れの中に大小の島々の生成結合がおき、当時の長岡藩と新発田藩とで新しくできた島の帰属をめぐって争ったという歴史があります。
ずうっと時代が下り大正期末の大河津分水の完成で昭和初期からの信濃川河畔の埋立てで流作場と呼ばれる地域は更に広がりました。
旧新潟地方気象台裏手のやすらぎ堤、旧古信濃川入口部で流作場及び古信濃川の概略の説明です。
下所島ポンプ場脇の道路です。古信濃川は現在全部埋め立てられ、その部分は暗渠となっています。古信濃川の上流、下流部の信濃川との接続部は排水用にポンプ場が作られています。
JRの線路を越え、新潟駅南口近くの天神第二公園脇の道路です。
新潟駅南口です。約60年前はこの辺りは田んぼでした。
当時では想像もできないくらい、大きく発展しました。
プラーカ1を横切り笹口の太陽公園脇を通り、東跨線橋から見た製紙会社の工場の煙突です。青空無風と気持ちの良い日です。
旧長嶺小学校、現ほんぽーと中央図書館前の「此処に古信濃川の流れありき」の碑です。
同碑近くにある古信濃川についての説明板です。
元禄期では古信濃川の流れが信濃川の本流でした。
ということで本流の左側にあるという理由で新しくできた島(中洲)が長岡藩の帰属となりました。
万代町通りと古信濃川の川跡の交わった所にこの碑は建っています。
流作場の開拓者、安倍玄的の墓がある本立寺(ほんりゅうじ)の塀の前での説明です。左側の道路は古信濃川の川跡です。
古信濃川ポンプ場前で説明。
東港線を超えて魚市場岸壁。ここが古信濃川の出口部分でした。といったことで丁度12時に終了。お客様の思い出話を交えての楽しい2時間のまち歩きでした。